宴の後



いつまでも降り続く土砂降りの中で、青年は途方に暮れていた。
空は鈍い鉛色の雲が覆い、そこから勢いよく落ちた雨粒が土に叩きつけられていた。
もう数時間は、山道を彷徨っていた。しかし、一向に山を下りられそうな気配は感じられなかった。
―――家を出たときは、あんなに良い天気だったのに。
彼は、一人でそう呟いた。
一昨日の昼頃から、雨が降り続いていた。それで、今日の朝になってやっと晴れたのである。
彼も、それで柴刈りにやって来た内の一人だった。
彼は雨雲に覆われた空を見て、ため息をついた。
彼はしばらくそうして空を仰いでいたが、ため息をついても仕方ないとすぐに思い直し、前に向き直った。
すでに彼の着物はずぶ濡れになっていた。しかし、今はどうしようもなかった。
家でもあればいいが、と彼は思った。しかし、山奥にそんなものがあるとはとても思えなかった。

しばらく歩いていると、遥か向こうにぼんやりと明かりが見えた。 明かりが彼を誘うかのようにゆらゆらとおぼろげに、しかしはっきりと彼の目に映った。それはまるで夢のような光景だった。
明かりを見つけた途端、彼は心臓が体内で浮上するように感じた。そうして心臓が体内から飛び出るかと思った。
「家だ、家がある。」
彼は無意識のうちにそう叫んでいた。

走って近くに行ってみると、確かにそれは一軒の旅館であった。
彼は戸を勢いよく叩いた。
暫くして出てきたのは、存外にも若い女だった。
ほっそりした顔つきで、細長い目をした女は、多少驚いたような顔をしている。
「どうしました。」
女は彼の姿を見て、そう問うた。
「薪を拾いに山へ入ったのですが、突然の土砂降りで道に迷ってしまいました。一晩泊めてもらえませんか。」
女は少し考えてから、微笑んで彼に言った。
「よろしゅうございます、丁度部屋が一つ空いております故、そこにお泊りなさい。」

彼は女に感謝し、一晩泊まることにした。
女に案内された部屋は、二階の廊下の隅にある部屋だった。
「お部屋はこちらになります。」
「どうも。」
女は先程と同じ微笑を浮かべた。そうして、
「食事の支度が出来次第お呼びします。」
とだけ言い、来た廊下をまた戻っていった。

女に呼ばれて食堂へ行くと、人が大勢集まって囲炉裏を囲んでいた。
「ああ、あなたは今日ここに来られた方ですか。」
彼の隣にいた老人が声をかけてきた。
「ええ、山で道に迷いましてね。」
「そうですか、この土砂降りじゃ、無理もありませんな。」
老人はため息をつき、こう言った。
「昔からの言い伝えがありましてな、なんでもこの山は、不思議な世界と繋がっておって、今日のような大雨の日には、その道が開かれると言われております。」
「あなたは、どうしてここへ。」
「私も一昨日、あなたと同じ理由でここへ来ました。この山へ柴刈りに来たときに、大雨に遭っての、山を下りる道を探したけれども、見つからない。そのうちに、この宿を見つけたのです。」
彼は、この老人に一種の親近感のようなものを覚えた。彼も、自分と全く同じ経緯からここへ来ていた。そうして、不思議と安心した。
部屋へ戻ると、今までの疲れが急に溢れ出た。そして強い睡魔に襲われ、深い眠りに落ちていった。

―――彼は、提灯の燈った薄暗い廊下を一人歩いていた。襖はどこも閉まっていて、人の話し声は無かった。
不思議なことに、寂しげなその廊下はいつまでも続いていた。そうして彼はいつまでも歩き続けた。

暫くそうして歩いていると、襖から明かりの漏れている部屋を見つけた。
彼はその部屋の中を覗いてみようと思い、襖に近づいた。
―――不意に、開いた襖から何かが飛び出た。真っ黒なそれは、何かの獣のようだった。
真っ黒な獣は、振り返りもせずに暗い廊下へ姿を消した。


彼は、先刻から感じる妙な肌寒さで目を覚ました。
どれだけ眠っていたのかは分からないが、相当長く眠っていたのには相違ない。
寝ている間に動いたのであろう、いつの間にか体が布団から出て畳の上に転がっていた。
「うう・・・」
彼は頭痛のために呻きながら、座ったまま部屋の中を見回した。
おそらく今は真夜中であろう、部屋の中は薄暗かった。雨はもう止んでいて、窓から射し込んだ月明かりが部屋の隅の文机を蒼く照らしている。
もう秋も近いころで、格子窓から冷たさを帯びた風が、時折吹き込んでくる。行灯は眠っている間に消されたらしい。
もう皆寝たのだろう。廊下や隣の部屋からは物音ひとつ聞こえない。彼はまた、頭痛に呻いてうつむいた。
―――この分なら明日になれば家へ帰ることができるだろう。そんなことを考えているうちに、ふと喉が渇いていることに気づいた。
―――台所へ行って、水を飲ませてもらおう。
そう考えて、彼は立ち上がった。

襖を開けると、廊下の奥には不気味な闇が広がっていた。
もうどこの部屋も寝静まっているようだった。聞こえるのは、草むらにいる虫の音だけだ。
廊下には提灯が沢山あったが、それらは全て消されていた。
次第に目が暗闇に慣れてきたので、彼は壁を確かめながら、ゆっくり歩き出した。
台所は、下の階の階段を下りて廊下を右へ曲がり、まっすぐ行ったところにある。彼はこの宿に来たとき、人が飯の支度のためにそこを頻繁に出入りしていたのを見たので知っている。
歩いていると、向こうに階段が見えた。
「あれか・・・。」
彼はそう呟いて、階段の方へ向かってゆっくりと近づいていった。
そうして階段の傍まで来たときである。
ふいに後ろで物音がして、彼は跳びあがった。襖が開いた音だった。
彼は、先刻見た、黒い獣の夢を思い出していた。
こんな時間まで起きている人がいるとは考えられない。それとも誰かが目を覚ましたのか。彼は後ろを振り返った。
―――誰もいない。
きっと空耳だ。そうに違いない。彼は自分にそう言い聞かせ、足元に用心しながら、階段を降りていった。


階段を下りると、下の階も上と同じように重苦しい闇が広がっていた。しかし、こちらは月明かりの届かぬ分、上の階よりも暗い。しかも、どこからも物音はしないのである。あまりの不気味さに、彼は身震いをした。
しばらく廊下を壁伝いに歩いていく。廊下の板は大分古いらしく、歩くたびにミシミシと軋む。誰かに気付かれやしないかと思い、彼は何となく不安になってきた。
そうしてしばらく歩いていた。突き当りまで来たとき、彼の足になにやら妙なものが当たった。
「なんだ?」
足元を見ると、どうやら提灯のようである。
「提灯?なんでこんなところに落ちているんだ?」
彼が驚くのも無理はなかった。普通はこんなところに提灯など落とさない。
先ほどの襖が開く音といい、落ちた提灯といい・・・一体何が起こっているのだろう。彼は背筋に奇妙な肌寒さを感じながら、ひとまず台所を目指すことにした。
落ちていた提灯の中には蝋燭が入っていたので、念のため持っていくことにした。


しばらく歩いていくと、台所らしきところへたどり着いたのだが、台所を見つけた途端、思わず彼は立ちすくんでしまった。
台所の左脇には格子窓がついているのだが、その格子窓から光が漏れているのだ。いや、光といっても、提灯や蝋燭の明かりとは明らかに違う光であった。どうやら竃に火が点いているようなのである。
彼は思わずつばを飲み、息を殺して台所へ近づいた。―――だれか台所にいるのか。しかし、なぜ真夜中に竃に火など焚いているのだろう。
彼は襖を少し開け、中をのぞいた。
向こうで竃の火が轟々と燃えている。そしてその前に誰かがしゃがみ込んでいる。
その人はどうやら女性のようだった。かなり痩せていて、濡れた髪の毛が無造作に背中へかかっている。着物はよれよれのものを着ていて、あちこち継ぎ接ぎだらけであった。
その女はぼんやりと竃の火を見つめている。彼女からは、生気が感じられなかった。彼女のその姿はさながら亡者であった。

彼は思い切って台所へ踏み込んだ。と同時に、竃の火が消え、女の姿も消えてしまった。

彼は狐につままれたような顔をしてしばらくその場に立っていた。
「今のは・・・」
まるで夢の中の出来事のようだった。幻に違いないと、彼は思った。しかし一方で、そうでない気もした。いや、現実だったのに違いない。土間には草履の跡のようなものがついていたのである。

彼はようやく我に返って、水がめの水を柄杓に汲んで、一気に飲み干した。水は冷たく冴えていて、冷たさと潤いが体中に染み渡っていくような感じがした。
のどの渇きはそれで癒された。


のどの渇きが癒されると、さっきまでのことについて考える余裕ができた。
彼は、あれはもしかすると幽霊ではないかと思った。そうとしか考えられなかった。突然姿を消すなど、人間では到底できない。だとすると、人間以外の何か―――幽霊か、狐か、狸か。いずれにしても、ここは普通の宿ではない。
そうだ、俺は狐か狸に化かされているんだ。だからあんな幻を見たのだ。
彼は、体から熱湯が噴出すように感じた。
早くここから出なければ。
彼は台所を飛び出した。そして戸口へ行き、勢いよく戸を開け、夜道を駆け出した。
今まで降っていた雨は、既に止んでいた。草木の葉についた雨粒が月明かりに照らされ、きらきら輝いている。そしてどこかから蛙や虫の鳴き声が聞こえてくる。しかし、彼にはそんなものを気に留めている余裕はなかった。ただただ逃げることに専念していた。
彼はしばらくして、後ろを振り返った。途端に、背筋を戦慄が走りぬけた。
後ろから、女が追いかけてきていた。その顔には、どこか見覚えがあった。
あの顔は―――そうだ。
はじめにこの宿へ来たときに宿から出てきた、あのほっそりとした顔つきの、目の細い女であった。
―――そうか、それじゃあ竈の前にいたのは。
途端に彼は悟った。あの女の正体は狐だったのだ。
そう思った途端、彼はひどい目眩を感じて倒れた。
目の前が真っ暗になって何も分からなくなった。



気がついたとき、彼は自分の家で寝ていた。そばで妻が心配そうな顔をして彼の顔を覗き込んでいた。
「よかった、気がついて。畑仕事のしすぎだって、お医者様が言っていましたよ。」
「畑仕事・・・?」
「そう。あまりはりきりすぎるから、熱を出して倒れ込んだのでしょう。あまり無理をなさってはいけませんよ。」
彼はしばらく呆然としていた。そしてはっきりと思い出した。そうだ。
俺は畑仕事の途中に熱を出してその場に倒れたんだっけ。


後日、夢に出てきた女のことが気になったので、誰か知るものはいないかと思い、聞いてみると、長老が、それはお前の母親じゃ、と言った。
なんでも母親は、彼が生まれてから間もなく、山へ入り、そのまま帰ってこないという。
とすると、自分は夢の中で母に出会ったのだ、と彼は思った。
夕日が西へ傾き、はるか遠くの山へ沈もうとしている。
宴の後・完