第一章 奇妙な依頼人

 薄暗い部屋の中で雨川は重い瞼を細めに開けた。そして布団から腕を出し、夜光塗料の塗られた文字盤を見る。―――六時五分。彼はのっそりと起き上がると、猫のように伸びをし、ベッドから降りた。君山荘に到着してから、四日目の朝である。カーテンを開けると、外はもう明るい。空は白い雲に覆われ、遠くの山は白く霞んでいる。窓を開けると、涼しい風が部屋の中に入り込んできた。山奥の朝とは、何とも心地のいいものである。雨川は早速着替えると、館を出て辺りを散歩することにした。
 君山荘の周辺は丈の高い木が密生していて、遠くから見るとあたかも館全体が緑色の海に沈んでいるかのように見える。その緑色の海からは白い時計塔が突き出し、日の光を浴びて白く輝いている。雨川は今度は館の正面に立ってこれを見上げた。館は二階建てで、端から端までは五,六間ほどもあるだろうか。向かって二階の右端の部屋が雨川の泊まっている部屋で、その下が今回の依頼人、陽三氏の寝ている部屋である。
 雨川が始めて陽三氏に会ったとき、その容貌に驚かざるをえなかった。彼の顔は青白く、痩せこけていた。そして目は落ち窪み、瞳の奥は爛々と輝いていて、絶えずぼそぼそと独り言を呟いている。以前雨川は彼の顔を新聞で見て知っていたが、今の彼はそのときとはまるで違っている。すっかり憔悴しきったその顔には、肉付きのよかった以前の面影は全くない。彼は表向きこそは何でもないように振舞っているが、実際は何かに思い悩んでいるに違いないのだ。青白い顔がそれを物語っている。
 と、そのとき、「やあ、あなたも散歩ですか」
雨川が窓から玄関へ視点を移すと、そこから男が一人出てきて、こちらへ近づいてきた。鶴嶋陽三である。
「ええ、早く起きたものですから。気持ちのいい朝ですね」
「本当に。都会と違って空気が新鮮ですからね」
陽三はやつれた顔で力なく微笑んだ。
「雨川さんは探偵だと聞きましたが、生活が大変でしょう」
「そうですね。食っていくのは大変ですよ。探偵というと偉そうに聞こえますが、客なんてそうそう来るものじゃありませんからね」
 そんなことを二人で話していると、玄関からこちらへ走ってきたものがある。
「やあ、妙子さん、おはようございます」
雨川が走ってきた彼女に声をかけると、妙子はそこで初めて雨川に気づいたらしく、
「ああ、雨川さん、お父さんも、早く来て頂戴、大変なんだから」
と息も絶え絶えにそんなことを言う。
妙子というのは陽三の長女である。彼には三人の娘がいて、長女が妙子、次女が幸恵、そして三女は知世である。そして三人の中で一番しっかりしているのがこの妙子なのである。
「妙子さん、どうかしましたか。大変なことって・・・?」
「雨川さん、知が・・・」
そういって急においおい泣き出してしまった。
「妙子、知世がどうかしたのか。おい、泣いてちゃ分からないよ」
陽三は妙子の肩を揺すって答えを求めたが、彼女はいよいよ烈しく泣き出すばかりである。
このとき雨川は嫌な予感に駆られた。まさか・・・!
「陽三さん、一度戻ってみましょう。妙子さん、案内してくれるかい」
妙子の興奮が治まるのを待って、雨川と陽三、妙子の三人は君山荘へ戻ることにした。


妙子の案内で雨川と陽三が知世の部屋の前まで来ると、入り口の前で幸恵が呆然と突っ立っていた。
「幸恵、どうしたんだいったい・・・?」
陽三に声をかけられて、幸恵ははっとしてこちらを見た。
「お父さん、知が・・・知が・・・」
そしてそれきり口をつぐんでしまった。
「陽三さん、とにかく部屋を見てみましょう」
雨川にそう言われて陽三はあわてて頷き、二人は部屋の中を見た。そしてその場で化石したようになってしまったのである。
 君山荘のそれぞれの部屋の構造はどこも同じらしく、どこも横長の、割合立方体に近い直方体の形をしている。入り口は部屋の右隅に取り付けてあり、その入り口から見て手前の左隅に大人一人が寝られる大きさのベッドが、どこの部屋にも横向きに備え付けられている。ベッドの脇にはタンスがあり、その上には、おそらく知世の私物であろう、プラスチックの写真立が置かれている。床にはくすんだ薄茶のカーペットが敷かれており、部屋の中央には丸い小さなテーブルがちょこんと置かれている。そしてそのテーブルのそばに、知世がうつ伏せで倒れているのである。
「知世!」
陽三氏は急いで彼女のそばへ駆け寄ると、すでに冷たくなっているそれをゆっくりと抱き上げた。
「ああ・・・知世・・・!知世・・・!」
陽三が彼女を激しく揺さぶるたびに、知世の首がガクンガクンと揺れた。
「都美子は・・・あいつはどうしたんだ!」
陽三が大粒の涙を流して叫ぶ。
「お母さんは・・・なんだか朝から姿を見ないの。部屋は鍵がかかっているし・・・」 このとき雨川は入り口のところでベッドの方を見ていたが、ふとテーブルの上に何かが置かれているのに気づき、それを手に取った。それは陽三宛の手紙のようだった。
「陽三さん、こんなものが・・・」
雨川が手紙を差し出すと、陽三はそれをひったくるように受け取り、封筒を破って手紙を取り出して読み始めた。そしてそこには次のようなことが記されていたのである。


   あなたへ

   わたしはもう、あなたとの生活が厭になりました。ですから私はここを去ることに致します。どうか探さないでください。さようなら。

  P,S 知世を殺したのは私です。


 この短い手紙を読み終えると、陽三はへなへなとその場に崩れ落ちてしまった。
「陽三さん、とにかくこうしていても仕方がありません。妙子さん、警察に連絡を」
「え、は、はい」
「陽三さん、お気持ちは分かりますが、一旦この部屋を出ましょう。知世さんを殺した犯人を突き止めるためにも、現場は荒らさないほうが・・・」
陽三は知世を抱きかかえながら、一瞬恨めしそうな目つきで雨川を見たが、すぐ思い直して、
「いや、失礼しました。じゃあそろそろ出ましょう。そういえば朝食もまだでしたな」
二人は部屋を出て、ダイニングで簡単な朝食を済ませた。


 警察が到着したのは、それから三時間ほど経ったころのことであった。
担当の小笠警部は体格のがっしりした、精悍な顔つきをした男であった。彼は雨川を含めた事件の関係者から話を聞いてまわり、それを熱心にメモに書きとめていた。雨川は不倫調査の目的でここに来たことを伏せて話したため、警部は腑に落ちないというふうな顔をしていた。
「つまりあなたは、陽三さんの旧友で、今回彼に誘われてここへ来たんですね」
「そうです。そして四日目の今日、七時ごろに殺人事件のあったことを妙子さんから聞いたんです」
「ふうむ」
小笠警部は疑わしげな目つきで雨川を見ていたが、
「まあいいでしょう。どうせ犯人なんてすぐに捕まるでしょうから」
「警部さんそんなこと、どうして分かるんです?」
「だって、現場にあった手紙には・・・」
「でもあの手紙、追伸のところの筆跡だけ、定規で引いたような線でしたよ。もし本当に都美子さんが殺したのなら、わざわざあんな字を書く必要はないと思いますがねえ」
小笠警部は渋い顔をして、
「それならあなたは犯人が分かるっていうんですか」
「いえ、私にも分かりません。もしかすると、都美子さんがわざとこういう風に書いて、嫌疑から外れようとしたのかもしれませんし」
「あなたさっきから、まるで探偵のような口を聞きますが、何をやっていらっしゃる方ですか」
雨川はこれを聞いてにやりと笑い、
「あなたのご推察通り、私は探偵ですよ。・・・ああ、今はちょうどこの部屋に陽三さんしかいませんから、本当のことを話してもいいでしょう。ねえ、陽三さん」
陽三は軽くうなずいた。
 雨川は海岡弁護士から、都美子の不倫調査のためにこの旅行に同行したこと、それを陽三以外の家族には秘密にしていることを簡潔に話した。
「なるほど、そういうことですか。ですが雨川さん」
「はあ」
「この殺人事件は、それとあまり関係があるとは思えませんね」
それについては雨川も同じ意見であった。君山荘を出て行くのに、彼女がわざわざ自分の娘を殺す理由があるとは思えない。
 都美子の失踪に関して、もう一つ不可解な点がある。それは、彼女がどうやって山を降りたか、ということである。彼女が山を降りた時間はおそらく、昨日の夜あるいは早朝だろう。どちらにしてもまだ暗い時分である。そして彼女が山を降りる方法は徒歩しかないはずである。暗く険しい山道を徒歩で降りる、これがどんなに危険であるかということが、彼女に分からぬはずがない。賢い彼女が――昨日まで彼女を見ていて、雨川はそう思ったのだが――そんな無謀な考えを起こそうとは、とても思われなかった。
もし本当に彼女がここを出て山を降りようとしたとすると、彼女は今どこにいるのだろう。
陽三の青白い顔はますます青白くなり、今にも貧血を起こして倒れるかとさえ思われた。
「ああきっと私のせいだ、私がおかしな疑いをあれに掛けたりしたから・・・」
と、独り言をつぶやいている。


 こうして警察が捜査を続けている間に、すでに時刻は二時になろうとしている。
先ほど、担当医の石田先生から死体についての解剖の結果が届いた。それによると、死亡推定時刻は昨日の十時から十一時までの間で、死因は絞殺だということである。
「もし都美子さんが知世さんを殺したとすれば、彼女は少なくともその時刻まではいたはずですね。私たちが乗ってきた車もちゃんとありましたから、彼女は車では降りていない。とすると、彼女が徒歩で降りるためには夜が明けるまでまたなければならないはずです。しかし、朝になってからは誰も出入りした様子はなかった。私は六時五分に目を覚まして窓から外の景色を見ましたし、外へ出て陽三さんと話をしましたから、それ以後にはおそらく出ていないでしょう」
「それなら雨川さんが来る少し前に抜け出したのかも・・・」
「都美子が知世を殺すのは無理と思います」
陽三が突然、二人の話に割って入った。
「陽三さん、どういうことです?」
陽三によると、彼女は低血圧で、朝が苦手なのだという。ことに昨日は一時までは起きていて、ずっと居間で雑誌を読んだり、陽三と話をしたりしていたらしい。
「陽三さんはいつごろから、彼女と一緒にいたんです?」
「そうですね、たしか十一時半ごろのことだったろうと思います」
驚いて雨川と小笠警部は顔を見合わせた。小笠警部はメモ帳を取り出してしばらく見ていたが、ふと顔を上げると、
「陽三さん、それはおかしいんじゃありませんか」
「えっ?」
「だって、都美子さんは十二時までずっと妙子さんや幸恵さん、それから雨川さんとトランプで遊んでいたんですよ。・・・ダイニングで」
「ば、馬鹿な!」
「ええ、たしかに都美子さんは私たちとトランプをしていましたよ。途中トイレに行くために五分くらい席を立ちましたが、それ以外はずっと一緒でしたね」
「そ、そんな・・・私はたしかに家内と・・・」
「しかしねえ、陽三さん、たしかに都美子さんとトランプをやっていたと、三人とも言っているし、それに家政婦達も見ている。陽三さん、都美子さん以外の証人はいるんですか?」
陽三は首を横に振った。


 それから三日経ったが、彼女の行方は杳として分からなかったし、また事件の捜査にも進展はなかった。三日前の彼らの証言から、都美子はシロとなった。しかしそうすると、だれが知世を殺したのか。
ところで、鶴嶋家には今二人の家政婦がいる。彼女達は双子で、一人は風間照子、もう一人は月子というのだが、驚くほど顔立ちがよく似ている。外見的な特徴もないので、鶴嶋一家はよく間違えるという。
当然彼女らにも疑いの目が向けられた。
「あなたがたは事件当夜、何をしていました?」
「私どもは夕食の片づけをしたあと、十時まで奥様やお嬢様方、それから」
と雨川の方に顔を向けて、
「雨川さんと一緒にいました。それから部屋に引き取って十一時ごろまで本を読んでおりました。それから十一時半頃―腕時計を見たのでわかるんですが―突然外から足音が聞こえたので、私達、気になって窓の外を見たんです。そうしたら・・・」
「そうしたら・・・誰かいたんですか」
「それが・・・ご主人様なんです」
「な、なんだって!」
小笠警部は吃驚して居間のソファから立ち上がった。
雨川はさすがに落ち着いている。
「それで・・・陽三さんの様子はどうでしたか」
「ひどく急いでいるようでした。だから私達、そのあとは気になって何にも手につきませんでした。五十分ごろ、月子は寝てしまいましたが、私はご主人様が戻ってこられるまで起きていようと思って、二時まで起きていました」
「なるほど、それから・・・?」
「いつまで経っても戻られないので、とうとう眠ってしまいました。翌朝、月子に起こされて、目が覚めたのでございます」
「ありがとう。警部さん、この方達に手伝ってもらって、陽三さんのタンスを調べてみるといいでしょう。それからそこの置時計ですが、五分ほど早いですね」
警部は置時計を見て、それから自分の腕時計を見た。――十一時五分。しかし、置時計は十分を指していた。
 午後になってから警部は双子の家政婦とともに陽三のタンスが調べてみたが、果たしてシャツやズボン、靴下といったものが一着ずつ無くなっていた。
再び恐ろしい知らせが届いたのは、その日の夕方のことであった。

第一章・了