君山荘という別荘は、大正十年ごろに君山蕉風という貴族が建てたと云われている。当時の別荘などに見られる、洋風建築と和風建築を合わせたような建物で、洋館も日本家屋も外壁は真っ白に塗られている。建てられた当時、日本家屋のほうには広大な日本庭園があったそうだが、戦災で焼けてしまい、現在は当時よりも小さくなっている。一方、洋風建築の方には、立派な時計塔がついている。この時計塔の外壁もまた真っ白で、屋根は黒っぽい、尖った三角錐の形をしている。内部には大きな鐘がついているが、壊れてしまっているのか、私は今まで鐘が鳴ったのを聞いたことがない。
 この君山荘は、姥女岳という山の中腹に建っている。姥女岳というのは、福島県の猪苗代湖の北のあたりにある小さな山で、そのすぐ北には磐梯山がそびえている。古い伝記によると、君山氏はこの姥女岳からの風景を大変好み、君山荘を建てたのだという。大正十年といえば第一次世界大戦が終結してから三年後のことであるから、ちょうど景気のよい時分であったと記憶している。昭和に入ってからは次第に落ちぶれていったようだが、これは昭和四年頃の恐慌のためだろうと思われる。文献によればその後、君山氏はこの別荘を手放しているが、それに目をつけたのが鶴嶋一郎という人物で、彼はこの別荘を大変気に入り、一ヶ月に一回くらいのペースで訪れていたという。やがて一郎が没すると、長男の雄一の手に渡ったが、この雄一というのが非常にずぼらな性質の持ち主で、ほとんどほったらかしにしていたため、別荘は所有者がいないも同然であった。
 この別荘は今でも鶴嶋家が所有していることになっていて、十八年ほど前まで手付かずの状態であったが、その後修復工事が行われ、今では建設当時の姿で姥女岳に建っている。
 ところでこの「姥女岳」という名の由来だが、これについては私もうろ覚えである。だがおおまかなことは記憶しているので、ここにそれを記しておくことにする。
 姥女岳はもともと、「黒狸山」と呼ばれていて、狸が多く生息しているところだったといわれている。そして黒狸山の裾野には、猟師がたくさん住んでいて、この山に住む狸を捕らえ、その毛皮を売って生計を立てていたという。あるとき、この村にいた一人の猟師が、ある日黒狸山で道に迷ってしまった。いくら歩いても山を降りることができず、とうとう日が暮れてしまった。途方に暮れ、とぼとぼと歩いていたところへ、少し離れたところに人家を発見した。そこで猟師は喜んでその家の戸をたたき、一晩とめてくれるように頼んだ。家の中から出てきたのは一人の老婆で、老婆は快く猟師を迎え入れたという。翌日猟師は山を降りることができたが、猟師は後々まで老婆に感謝し、この山を「姥女岳」と呼んだという。それが広まり、以来この山を「姥女岳」と呼ぶようになったのである。

 さて、雨川京太郎が海岡弁護士からの手紙を受け取ったのは、七月十五日のことである。手紙には、次のようにしたためられていた。「先日、『白羽の矢殺人事件』でのご活躍を耳にし、手紙をお送りしました。是非あなたを煩わしたいことがございますので、十八日の午後一時に私の事務所までおいで下さるようお願いいたします。」手紙に書かれているのはたったこれだけであったが、雨川はこれを読むなり驚喜した。無理もないのだ。海岡弁護士といえば、その名を広く知られるベテランの弁護士である。そのベテラン弁護士が雨川のような三流の探偵に依頼を申し込むなど、普通ではありえないのだ。彼の心臓は破裂してしまうかと思われるほどドクドクと高鳴っていた。彼はこのことを親友の梶井健一に知らせようと、早速彼の携帯に電話を掛けたが、いつまで経っても出ないのでやめてしまった。
 雨川が海岡弁護士の事務所を訪れたのは、それから三日後の午後一時を少し過ぎたころのことである。
「やあ、あなたが雨川さんですね。どうぞお掛けください。」海岡弁護士はその大きな体を、深々とソファに沈めている。「はあ、では。」雨川がソファに座るのを待って、海岡弁護士は口を開いた。
「では早速本題なんですがね。あなたは鶴嶋一家をご存知かな?」
「ええ、日本有数の実業家ですね。祖父の一郎というのが一代で現在の地位を築き上げたと聞いています。」
「そう。それで今回の依頼人というのがその鶴嶋家の主の陽三という人なんですよ。」雨川はこれを聞いて、思わず目を丸くした。
「それで依頼というのは?」
「さあ、それがまた妙なんですよ。なんでも、今度行く避暑地で妻が誰かと逢引をするはずだから、是非調査を願いたいというんです。」
「逢引?では陽三という人は、それについて何か確証を持っていらっしゃるんですか?」
「いや、それが・・・何もないが、なんとなくそんな心持ちがすると言うんですよ。私もなんとなくでは困る、悪ふざけなら帰ってもらいたいと言ったのですが、彼は悪ふざけじゃない、こっちは真剣なんだと言い張るばかりで・・・」
「なるほど、それでその依頼をお受けしたというわけですね。」
「ええ。それでね、雨川さん、依頼したいことというのは、つまりそれなんですよ。」
「なるほど。私が鶴嶋家の人々に同行して、その逢引というのを調査すればいいんですね。」
「ええ、つまりそういうことです。雨川さんは、陽三さんの友人として鶴嶋家の方々に紹介しておきましょう。」「助かります。」
 雨川は事務所へ帰ると、愛用の椅子に座って天井を仰ぎ、大きなため息をついた。そして海岡弁護士の言っていたことを思い出し、またため息をつく。なんとも奇妙な依頼人だ。なぜ彼は、これといった確証もないのに妻が逢引すると言い張るのだろう。それには確証とは言わぬまでも、何か彼にそう思わせたきっかけがなくてはならない。だとすれば彼はやはり何かを知っていることになる。海岡弁護士にそのことを伏せて依頼してきたということは、それは人には言えぬことなのだろうか。―――いや、考えていても仕方あるまい。まだ依頼人にさえ会っていないのだ、どうして勝手な憶測で片付けることができようか。雨川はそこで考え事をやめて大きく伸びをすると、ふらりと事務所を出ていった。
 その夜、雨川はなかなか寝付かれなかった。久々に大きな仕事が舞い込んできたという興奮もあったが、それ以上に昼間の弁護士の言葉が気にかかった。彼は、まだ何にも解っていないじゃないか、依頼人にさえ会っていないんだぞと自分に言い聞かせたが、それでもまだ心は落ち着かない。そうして寝床の中でなんとか眠ろうと努めているうちに、とうとう二時を過ぎ、三時を過ぎた。―――とそのとき、突然隣の部屋で電話が鳴った。雨川はこのとき半分ほど眠りかけていたので、彼にとっては不快に感じられた。ベッドから抜け出し、急ぎ足で隣の部屋に行くと、ドアの近くの台に置かれている電話の受話器を取った。
「はい、雨川ですが。」
しかし、相手は何も話さない。
「もしもし?」
「・・・・・。」
やはり相手は黙っている。雨川はこの電話の相手が気味悪く感じられたので、「用がないなら切りますよ」と一言断って電話を切ろうとした。すると、受話器の向こうからしわがれた、老婆のようなかすれた声が聞こえてきた。
「鶴嶋家に復讐してやる、別荘で待っておるぞ」
しゃがれた声はそれだけ言うと、カチャリと受話器を置いた。あとにはただ、ツー、ツー、ツー、と聞こえるばかりである。雨川も受話器を置き、部屋に戻ってベッドにもぐりこんだ。

 翌朝、準備を整えた雨川が外へ出ると、ちょうどそこに海岡弁護士の乗った車がやってきた。そして雨川の前で車が止まり、窓から海岡弁護士が顔を出した。
「おはようございます。鶴嶋家の皆さんとは駅で合流することになっていますから、送りますよ。」
「やあ、わざわざありがとうございます。」
海岡弁護士は雨川を乗せると、来た道をUターンして駅へと車を走らせた。雨川の事務所は海岡弁護士の事務所と駅のどちらからも遠いので、どうしても来た道を一度戻って駅へ行かなければならないのである。
駅に着くまでの間、雨川は海岡弁護士に、昨夜の不気味な電話のことを話した。
「そうか、君が別荘へ行くことを誰かに知られてしまったのか。しかし、その老婆というのは私にもわからないな。君山荘にはそういう人物はいないはずだから。」
「何者かが老婆のような声色で電話を掛けてきたとしたら・・・?」
「しかしねえ、あなたが来ることを知っているのは今のところ陽三さん一人だけのはずですよ。盗み聞きしたのならともかく・・・」
「まあ、それはおいおい考えていくことにしましょう。もしかしたら何か意味のあることなのかもしれませんから。おや、もうそろそろ着きますね」
駅は雨川の事務所から三キロほど離れたところにある。雨川は滅多に外出しないので、いまだにこの近代的な建造物を見慣れない。 時計を見ると十時四十分。駅は南に立っているので、東の空から太陽が照りつけて建物の全体が白く輝いているように見える。雨川は目を細めてこの巨大な建造物を見上げた。

序・了