第四章 見えない糸

「そ、それは、ほ、本当ですか?」
竹本刑事は興奮のあまり、少々どもり気味に雨川にたずねた。
「ええ、おそらくこれで間違いないと思います。」
まもなく、尾山家の人々と梶井が事件のあった部屋へやってきた。
「本当かい、雨川。犯人がわかったって。」
「ああ。それじゃ皆集まったようですから、始めることにしましょう。ではまず、犯人のことを話す前に、今回の事件がいかにして行なわれたかということを話しておきましょうか。」
「まず、私のところに脅迫状が届いて、それを君に見せたんだったね。」
「そう。そして君の依頼を受けて、私がこの尾山家へ来ることになったわけだ。そして三時ごろ、達郎さんが殺された。」
「そして殺人の行われた部屋は密室になっていたんでしたな。」
雨側の左に立っていた竹本刑事が言った。
「そうです、そしてその密室がどのようにしてできたか、ということですが、これは実際に実験してみましょう。」
そういうと雨川は、ポケットからテグスを取り出した。
「今日、この近くにある釣具店で買ってきたものです。実は今回の密室殺人に、テグスが大きな役割を果たしていたのですよ。」
竹本刑事は目を丸くした。
「テグスで?」
「そうです。ではひとつやってみましょう。」

雨川はまず、通気窓にテグスを通し、それを踏み台を使って、天井に持っていった。よく見ると、天井に何か茶色く小さいものが取り付けてある。それはヒートン―鍵を掛けるために使われる小さなフック―であった。
「ヒートンは、事件後もそのままになっていました。あの状況で天井を見ようとする人なんて、まずいないでしょうから、無理もないでしょう。」
竹本刑事は、思わず右手で目を覆い、嘆息をもらした。
ヒートンにテグスを掛けた後、それを窓にはまっている鉄格子へ持っていった。そしてテグスを鉄格子の一番低いところへ通し、ピンと張った。
最後に通気窓まで持っていって廊下にテグスを出し、雨川も部屋を出て行った。
尾山家の人々や梶井、竹本刑事も一緒に廊下へ出る。
「こうして犯人は前もって下準備をしておきました。あとは達郎さんがこの部屋へ入ればいいわけです。」
竹本刑事はあわてて、
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、雨川さん。達郎さんがこんな仕掛けを見たら、何かあるのじゃないかと疑って引き返し、すぐに誰かにそのことを話すに決まっています。しかし達郎さんは悠々とこの部屋で音楽を聴いていた。これはいったいどう説明するんです。」
雨川はにやにやしながら、
「竹本刑事も竜一さんから聞いたでしょう、達郎さんはド近眼だったって。糸が見えなかったんですよ。」
「あっ―――」
「そして達郎さんが部屋に入った後、そっと犯人も忍び込んだ。そして、ロープか何かで絞め殺し、胸元に白羽の矢を突き立てたんです。おそらく達郎さんは、首を絞められるまで、犯人のいることに気がつかなかったのでしょうね。死体が発見されたとき、椅子を立った形跡がないのは、その証拠です。」
梶井が怪訝そうな顔をした。
「でも雨川、どうして犯人が入ってきたことに気づかなかったんだい?たとえ物音がしなくても、入ってくるのを見れば立ち上がりそうなものじゃないか。」
「それはね、梶井君。あの人は何か一つのことに熱中すると、周りが見えなくなるからさ。」
良治が雨川の代わりに答えた。雨川もうなずいて、
「そう、そしてそれが死体を発見するのを遅らせるのに役立ったわけですね。さて、話をもとに戻しますが、達郎さんを殺害したあと、犯人はテーブルの上に置いてあった小瓶を持って、廊下へ出ました。では、小瓶を元に戻すトリックを、実際にやって見ましょう。」
雨川はそういって小瓶の蓋を開け、中から鍵を取り出して扉に鍵を掛ける真似をし、それから通気窓から垂れている二本のテグスのうちの一本を蓋の孔、続けて鍵に通し、再び孔から出して蓋を閉め、もう一方のテグスと結んだ。通気窓には、一本の長い釘が刺さっている。
「この釘は私が刺しておいたものですが、この隣に同じような釘を刺したあとがあります。そんなに深くは刺さっていませんでしたから、道具があればそれほど音を立てず簡単に抜けたでしょう。」
そして雨川はこの釘にテグスをかけ、全員部屋の中へ入るように言った。
最後に竹本刑事が入ってくると、通気窓のところに小瓶がぶら下がっていた。
雨川は全員入ったことを確認すると、輪になっているうちの一方のテグス―――ヒートンに掛かっている方のテグスを、ゆっくり手繰り寄せた。
すると、ぶら下がっている小瓶がゆっくり前へ進んでいく。
そして徐々にテーブルへ近づいていき、ついにテーブルの上で止まった。小瓶とテーブルの間の隙は、わずか数センチほどしかなかった。
竹本刑事が通気窓の方を振り返ってみると、雨川はハサミを取り出し、テグスの輪を切った。途端に糸の緊張が緩まる。
小瓶はゴトッと小さく音を立てて落下し、中の鍵も同時に小瓶の底へ落ちる。
そして雨川が糸を手繰り寄せると、糸はするすると鉄格子を通り、ヒートンを通って、通気窓から出て行った。

誰も何も言うことができなかった。まるで皆いっぺんに化石して言葉を忘れてしまったようだった。
雨川がドアを開ける音が、部屋の中に響いた。
「さて、これで密室の謎は解けました。あとは犯人は誰かということですが・・・」
「もういいでしょう、雨川さん」
そう言ったのは良治である。皆ぎょっとして良治を見た。
「良治・・・あなた・・・」
「どうして・・・どうしてお兄ちゃんが・・・!」
「やはりあなたでしたか。あなたが今日釣りに行く予定だったと聞いたとき、もしかしたらと思いましたよ。」


―――今私は、刑務所の中でこの告白書を書いている。
あの雨川京太郎という探偵が家にやってきたときは、私は彼を甘く見ていた。聞けば彼は、三流の探偵だそうじゃないか。まさか今回の白羽の矢殺人事件のみならず、十年前の事件の真相まで突き止めていようとは、誰が予想し得ただろうか。
だが、私は潔く敗北を認めることにする。
梶井に脅迫状を書いたのは、私だ。なぜ彼に宛てて書いたのかと言えば、彼はあの事件の唯一の目撃者だからである。
私は父が嫌いだった。仕事のことしか考えずに何日も家に帰らず、たまに帰ってくれば母や私に暴力を振るう。そんな父に嫌気がさしていたのだ。
達郎を殺したのは、近々あの一家がこの家へ居候することになっていたからである。あの一家はいつも私たちを汚らわしいものでも見るような目で見るくせに、自分たちの立場が危うくなると、へこへこと私たちの財産に頼ってくるような、卑劣な連中である。だから彼らをこの家に入れたくはなかった。ゆえに、達郎の殺害計画を練ったのである。
あの夜、父の帰り道である橋の上で待ち伏せた。そして倉庫から持ってきた白羽の矢で、帰宅途中の彼の胸を突き刺し、橋から突き落としたのである。
その後、父が自殺したように見せかけるために、あらかじめ脱がせておいた父の靴を川原に並べておいたのだ。
幸い、周りに人はいなかった。私の犯罪はほぼ完璧だったのである。
そしてその次の日、梶井が遊びに来た。彼はいつもと同じようにふるまっているらしかったが、今日は様子が違う。
私を見る目の色が猜疑に満ちている。それで私は悟った。―――彼は昨日、私が父を殺すところを見たのだ、と。
幸い、彼は事件を目撃したことを誰にも話さなかったようだ。親友である雨川に対しても。しかし彼は、今私がここに書いていることをすでに知っていたのである。
彼は十年前の事件の真相を明かしたのち、梶井にこんなことを言った。
「なあ梶井、知っているのに知らないふりはよくないぜ」と。
彼は不思議な人物である。
S県N市も、もう冬である。そろそろ雪が降り出すころだろう。
これが書き終われば、もう思い残すことはない。ああ、窓から吹き込んだ北風がうなっている。


白羽の矢・完