第二章 不可能殺人

すでに夕陽は大地の彼方に傾き、乾坤を橙に染めている。
この日雨川と梶井は良治から二階の空いている一室を貸してもらい、その部屋に寝泊りすることとなった。
この部屋は階段を上がってすぐ右と左とに分かれている廊下の、左のいちばん奥の部屋である。その隣に良治の部屋、その隣が里美の部屋となっていて、右の廊下に進むと空き部屋の隣に邦枝の部屋があり、いちばん奥の部屋に達郎が閉じこもっている。神城夫婦は一階の、玄関のすぐ右隣にある部屋で寝泊りすることになっていた。その隣の和室は祖母の悦子の部屋である。そして、まだ帰っていない竜一の部屋と悠子の部屋がその向かい側にある。
与えられた部屋で、雨川は先ほどから問題の脅迫状を何事かを考えている。梶井は窓から見える夕日をぼんやり眺めていたが、ふと雨川のほうを振り返り、尋ねた。
「なあ、雨川。なぜ私のところにこんな脅迫状が届いたのだろうか。」
「さあ、それは私にも分からないな。そもそも犯人はなぜこんな脅迫状を出したのだろう。」
「もしかすると犯人は、私を呼び寄せて殺そうと・・・」
「しかし、だとしたら何のためだ?仮に君が事件に関わっていたとしても、その事件は君の知らぬ間に起こった事件なんだろう。」
「それはそうだが、ほかに考えようがないじゃないか。」
そのうちに邦枝が夕食の支度ができたと言って呼びに来たので、二人は下の階へ降りていった。

ダイニングルームは居間の左側にあり、その隣は書斎となっている。二人がダイニングルームに入っていくと、神城婦人、良治、里美、ウメ、邦枝の五人がすでに食卓に座っていた。
「おや、達郎さんはまだ居られないのですか?」
そう問うたのは梶井である。
「それがねえ、また右奥の部屋でクラシックを聴いているらしくて。あの人、音楽を聴いているときは周りの声が聞こえないのよ。」
悦子ははぁっ、とため息を漏らす。
雨川はこのとき、何となく嫌な予感がしたが、すぐに思い直した。―――今日は満月ではない。
邦枝が席から立って、
「私、ちょっと呼んできます。」
そういうとダイニングルームから出て行った。
「まだ竜一さんと悠子さんは帰っておられないようですね。」
雨川は再び誰にともなく尋ねた。
「ああ、今夜は遅くなるって、さっき竜一さんから連絡があったよ。どこかへ遊びに行ったんだろう。」
「お二人は仕事は何をしていらっしゃるのですか?」
「二人とも同じ大学の非常勤講師だよ。」
そう話しているところへ、邦枝が戻ってきた。
「達郎さん、部屋の中から鍵を掛けていて、幾ら呼んでも返事がないんです。まだ音楽を聴いているらしくて・・・。」
雨川はこのときいよいよ胸が怪しく乱れるのを感じた。
「梶井、行ってみよう。もしかしたら・・・」
梶井も同じ考えだったらしい。
「ああ。・・・邦枝小母さん、あの部屋の鍵はありませんか?」
「ええ、私もその鍵を取りに来ようと思って戻ってきたのよ。ちょっと待って、探してきます。」
邦枝はそういって台所へ鍵を取りに行った。
「梶井、私達は先に部屋へ行こう。」
「ああ。」

二人はダイニングルームを飛び出し、階段を駆け上がって例の部屋の前まで来た。
「やはり解釈が間違っていたんだ、チクショウ!」
雨川は地団太を踏みたいのをやっとこらえて、それから梶井の方を向き、
「・・・ということはやはり犯人はこの家の者の誰か、ということになるな。夕方にこの部屋を見たが、窓には鉄格子がはまっていて、出ることも入ることもできない。おまけにドアには鍵が掛かっていた。」
「ということは完全な密室じゃないか。」
「いや、密室じゃない。この家には、部屋ごとに鍵があって、その鍵は誰でも自由に持ち出すことができた。しかも玄関を開けるとそのときどうしても音がするから、玄関からも逃げられないのだ。それに家の人達は今まで誰も玄関から出ていないだろう。」
「たしかにそうだ。それじゃやはりこの家の人の誰かが・・・」
そこへ邦枝がやってきた。
「雨川さん、梶井君。」
「どうしました。」
二人はほぼ同時に振り向いた。
「部屋の鍵がどこにもないのよ。それで合鍵を持ってきたの。」
雨川と梶井は顔を見合わせた。
「合鍵は隠しておられたのですか。」
雨川はそう尋ねた。
「ええ、全て私が持っています。万が一のことを考えて・・・」
「それじゃ小母さんは、こういうことが起こるのを初めから知っていた・・・?」
「いいえ、そういうわけじゃないけど。でも鍵が誰かに持ち出されて開かなくなったら困るでしょう。」
「なるほど。とりあえず開けてみましょう。」
邦枝はうなずいてドアへ近寄り、鍵を回してドアを開いた。そして三人とも一斉に中を見た。その途端、雨川は何とも言えぬ不気味な戦慄が背筋を走るのを感じた。
クラシックの流れる部屋の中で、達郎はソファに座っている。その目はすでに生気を失い、ただある一点を凝視している。そして胸には白羽の矢が突き刺さっている。―――十年前と同じように。
邦枝は悲鳴を上げ、気を失った。危うく倒れそうになったところを、梶井が抱きとめた。
バタバタと階段を駆け上がる音が聞こえ、良治、里美、悦子が青ざめた顔でやってきた。
「どうしたんだ、雨川さん、何かあったんですか」
「警察と救急車を呼んでください。事件が起こったんです。」
「事件って・・・まさか・・・」
里美は今にも気を失いそうである。
良治は部屋の中をのぞき、そして棒を飲んだように立ちすくんでいる。
「そんな・・・おじさんが・・・なぜ・・・」
と独り言のように呟いている。
雨川は亡くなった達郎を見、それから彼が凝視しているテーブルを見た。その途端、雨川はまたしても大きな驚きに打たれた。
テーブルの上に、無くなったはずのこの部屋の鍵が置かれていたのである。ガラス製の小瓶に入って。

警察がやってきたのは、それから十五後のことだった。
「失礼ですが、あなたは?」
と尋ねてきたのは、色の浅黒い、体格のがっちりした刑事である。この刑事、名を竹本という。
雨川は、しばらく刑事の立派な体格に見とれていたが、突然にこりと微笑むと、
「いや、どうも。私は雨川京太郎と申します。私立探偵です。」
そう言ってお辞儀をした。
竹本刑事はしかし、汚いものでも見るような目つきで、
「ここは警察の仕事ですから、捜査の邪魔をしてもらっては困りますよ。だいいちなぜ私立探偵なんぞがこんなところにいるんです。」
「それはねえ、刑事さん」
と言って、彼はここへ来た経緯を話し始めた。
話を聞き終わると、刑事はううむ、と唸った。
「しかしどうしてその脅迫状があなたの友人のところに届いたのでしょう。」
「それは私にもわかりません。しかし梶井があの十年前の事件に関わっていたことは確かだと思うんです。そうでなければこの脅迫状は、尾山家に届いていたでしょうね。」
竹本刑事は複雑な表情を浮かべている。
「ところでこの『月が満ちるとき』というのは何を表しているんです。私立探偵の立場から見て、どうお考えになりますか。」
竹本刑事の疑問はもっともだった。この言葉の意味を誤解していなければ、彼はもっと注意していたに違いないのだ。
「確かな証拠がないのでまだ何とも言えませんが、おそらく『月満ちるとき』というのを満月の出る日のことだと思わせておきたかったのでしょう。」
竹本刑事は雨川の顔を見直し、
「それはどういうことです。」
と尋ねた。
「おそらく本当の意味は殺される日ではなく、殺される時間だったのでしょう。満月の周期はほぼ十五日ですから、それを十五時と掛けたんですよ。」
竹本刑事は腑に落ちないようだった。
そこへ、他の刑事が報告に来た。
「死亡推定時刻は、だいたい午後三時頃だそうです。死因は絞殺で、首に何か太い紐のようなものをかけて絞め殺したと思われます。」
「そうか、ご苦労。捜査を続けてくれ。」
「はっ」
その刑事が戻っていくのを見ながら、竹本刑事は未だ苦い顔をしていた。彼はまだ、雨川を信用することができないらしい。
「ところで、あの白羽の矢は何です?絞殺した上に、胸に白羽の矢を突き刺していくのには、一体何の意味があるんでしょう。」
「それが私にはよく分からないのですが、やはり今回の事件は十年前の事件に関係しているのでしょうね。」
雨川はさらりとそう答えたが、実際彼にも分からないことだらけだった。
白羽の矢、ガラス瓶に入った鍵、密室の謎、そして脅迫状――― 一体何のためにこのような細工を施したのだろう。


第二章・完