第一章 尾山家の人々
彼は雨川京太郎という、いわゆる私立探偵である。歳は二十二・三といったところだろうか、少しばかり痩せていて、比較的小柄な体格である。目には澄んだ輝きがある。
さて、探偵といっても、事件の調査の依頼はほとんど無い。ペットを探してもらうために訪れる客もそれほど多くはないから、人の往来が少ない裏通りに建っている事務所はいつも静かであった。
雨川はその日も事務所のソファに座って長い一日を過ごした後、友人の梶井健一に呼ばれて彼の住むマンションへ遊びに行った。
ここで梶井について紹介しておくと、彼は雨川と同じ大学、同じ学科に籍を置き、二人はそのころ知り合った。大学を出たあと、雨川は亡くなった父親の探偵業を受け継ぎ、梶井は小説家になるためにある作家に師事し、アルバイトをしながら暮らしている。
そのマンションは雨川の事務所から二十分ほど東へ、真直ぐな通りを歩いたところに建っている。そこまで来ると一気に視界が開けて、薄暗い散歩道のような通りから突然明るい道路に出る。そして、その左側に梶井の住むマンションが見えるのである。
その日、雨川が彼の部屋を訪れたときの梶井は、何かにひどく怯えている風だった。
「どうしたんだ。やけにそわそわしているじゃないか。」
「ああ、雨川。君に聞いてほしいことがあるんだ。」
今、雨川は梶井とともにS県N市にある、尾山家の門の前に立っている。もう六月も半ばを過ぎた頃で、近くの田圃から蛙の鳴き声が響いてくる。
さて、その家は数年前に建てかえられたばかりらしく、周りの家よりも新しく、一際大きいのが印象的だった。
「随分と大きくなったものだな」
梶井は目を丸くして驚いている。
「昔はもっと小さな家だったんだけどな、五年程前に、父から受け継いだ会社で事業に成功し、それで多少裕福な暮らしができるようになったと聞いたよ。しかしこんな立派な家を建てたとは・・・」
「ここの家族は何人暮らしなんだい?」
「昔は六人で暮らしていたよ。夫の謙三、妻の邦枝、長男の良治、長女の里美、そして祖父の喜一と祖母のウメ。良治は私より三つ上、里美はそれより二つ下だったから、今は二十六と二十一のはずだ。」
「ふうん、なるほど」
雨川は、子供のように目をきらきらさせながら語る梶井の話を面白そうに聞いていたが、そのとき尾山宅から人が出てきた。二十代前半の若い女性のようだ。先程の梶井の話からすると、どうやら里美のようである。
里美とおぼしき女性は雨川と梶井の姿を見つけると、
「何か御用?」
と尋ねてきた。
「ああ、突然お訪ねして申し訳ありません。私は雨川京太郎、梶井健一君の付き添いで来ました。」
「・・・梶井さん?」
彼女は少し考えた後、彼女はようやく思い出したらしい。
「随分久しぶりね。あたし里美よ。覚えてる?」
「え、・・・うん」
梶井は少し照れているらしい。雨川は梶井を見てにやにやしている。
「ああ、大学を出たあと、ある小説家の先生に付いて、色々と書いているんだ。」
「へぇ・・・。ちょっと待ってて、いまお母さんたちを呼んでくるから。」
里美はそう言ってまた玄関のドアを開けて家の中へ入っていった。
しばらくすると、里美に続いて二人の男女が家から出てきた。彼らは梶井の姿を見ると、笑顔で近づいてきた。
「あれまあ、大きくなって。元気だった?」
そう言ってこちらへ近づいてきたのは邦枝である。彼女は五十をすでに超えていると思われる。どこか気品の漂う顔立ちである。
「梶井じゃないか。よく来たな。」
そう声をかけたのは良治だった。雨川は彼の顔をテレビで見たことがある。母親に似て、整った顔をしている。
「やあ、良治さん久しぶり」
梶井は満面の笑みを浮かべ、良治と握手を交わした。
そうして二人はしばらく、大学を出たあとの互いの生活について語り合っていたが、そのうち雨川に気づいて、
「ところで、この方は・・・?」
と梶井に尋ねた。
「彼は雨川京太郎といって、友人の私立探偵だよ。一緒に来てくれたんだ。」
その途端、他の二人がぎょっとして雨川を見た。しかし、良治だけは落ち着いて雨川を見ている。
「とにかく家へ上がっていってくれよ。ちょうど親戚が来ているんだ。」
家の中へ入ると、きれいに磨かれた木の床と高い天井が目に入って、雨川も梶井も嘆息を漏らした。
「すごいな、あのころより立派になっているじゃないか。」
梶井が言うと、良治は笑って、
「そりゃあそうだ。なんていったって私自慢の家なんだから。」
と言う。雨川も、
「あなたが出世して、こんなに立派な家を建てられたのだから、お父さんも幸せでしょうね。」
と言ってにこにこしている。
「私の親父のことをお聞きになりましたか」
「ええ、一通り梶井君から聞かせていただきました。」
「そうですか。では、あなたはこの事件のことを調査しに・・・?」
雨川はしばらく良治を見ていたが、突然、
「はっはっはっ、ばれてしまいましたか。」
と言って笑い出した。皆ぎょっとしていたが、良治は笑って、
「そりゃあ、事件でもない限り、私立探偵がこんなところに来るはずはありませんからね。しかしどなたから頼まれたんです。」
「それがね、実は依頼人は梶井君なんです。」
「なんだって?それは本当かい、梶井君。」
さすがに良治も吃驚したらしく、目を丸くして梶井を見つめている。梶井はバツが悪そうな顔をしている。
「ああ。詳しいことはあとで話すけど、私の家に脅迫状が届いたんだ。」
「きょ、脅迫状・・・?」
梶井はうなずいて、
「そこには、『十年前の事件を忘れるな』と書いてあった。そこで、友人の雨川君に調査を依頼したというわけさ。」
「なるほど。」
良治は大きくうなずいた。
「で、でもまだ何か起こるって決まったわけじゃないんでしょう?」
里美は怯えた声で言う。
「それについて、雨川さんはどう考えているのです?」
そう尋ねたのは邦枝である。
「いや、私はまだ何かが起こるとは言い切れないのですがね、こういう脅迫状が来たからには、何かしら変なことが起こる気がしますよ。」
そのときちょうど一番奥にある居間に着いた。
居間へ入ると、少々人相の悪い、赤ら顔の男と、髪にパーマをかけた肉付きのいい体格の婦人がこちらを見ている。そしてその向こうから、杖をついて小ぢんまりとした老婆がやってきた。
婦人が、
「おや、そちらの方が梶井さんですか。はじめまして。わたくし、神城悦子と申します。」
と声をかけてきた。梶井は軽く会釈をして、
「尾山さんの親戚の方がいらっしゃっているとは存じませんでした。突然おしかけてきてしまって申し訳ありません。」
と、神城家にも尾山家にも丁寧な挨拶を述べた。
「あらそんなこと、気にしなくてもいいのよ。」
悦子は笑ってそういいながら、
「この人は私の夫の達郎。家の近くの工務店で働いているの。」
と言って赤ら顔の男を紹介した。
この男はかなり人と交わるのが嫌いと見え、しかめっ面をして梶井や雨川を睨みつけている。視線からただならぬ殺気が感じられる。
婦人はそれに気がついて、
「お父さん、そんなに睨んじゃ、お客さんに失礼ですよ。」
と言うと、達郎はさらに顔をしかめて部屋から出て行った。
「気を悪くなさらないでね。少し気難しいけど、根は優しいのよ。」
悦子は言った。
「おうおう梶井さん、懐かしいのう。大きくなって。」
老婆はよろよろと杖をついて近づいてきた。
「ウメですじゃ。覚えていてくださったかな」
「もちろんですよ。ところで、おじいさんは・・・?」
「あの人は三年前に、逝ってしまわれたのじゃ。わしもそろそろ歳じゃから、あの人のところへ行かんならんのう・・・。」
「縁起でもないことを。おばあちゃんにはまだまだ生きていてもらわなきゃ。」
そう言って慰めているのは里美である。
邦枝も、
「そうよ、この子のいう通りよ。まだまだ頑張らなきゃ。」
といって慰めている。
「ところで、あなたは・・・」
悦子は雨川を見つけて尋ねた。
「なんでも、雨川さんといって、梶井さんの友人らしいわ。私立探偵ですって。」
邦枝は悦子に耳打ちした。
「ふうん・・・。」
「ところで、竜一さんと悠子さんは?」
良治は悦子に尋ねた。
「あら、さっき出かけたわ。夕方までには戻るって。」
梶井が怪訝そうな顔つきで、
「竜一さんと悠子さんというのは?」
と聞くと、良治は、
「達郎さんと悦子さんの子でね。私より二つ年下だ。」
と答えた。
ちょうどその頃、達郎は二階にある自分の部屋に鍵を掛け、音楽を聴いて寛いでいた。聴いているのはおそらくショパンであろう。やわらかく、繊細なピアノの音を聴いているうちに、彼は眠ってしまったようである。
時刻はまさに三時になろうとしている。
第一章・完