プロローグ

「なあ落ち着けよ。びくびくして、一体何があったっていうんだ。」
「これが落ち着いていられるものか。君はあのことを知らないからそう平然としていられるのかも知れないが、もし君が十年前に起きた、あの事件を知ったらそう落ち着いてもいられまい。」
「あの事件?なんだいそれは。」
薄暗い部屋の一室で、二人の男が向かい合って何かをひそひそと話し合っている。そのうちの一人が、何かに怯え、ひどく慌てている。
「なあ、話してくれよ。十年前に何があったのだい。そしてそれが今度のことにどう関係するのだ。」
もう一人の男はひどく聞きたがっている風である。
「それじゃあ話そう。十年前の惨劇を。実に語るのも恐ろしい事件だが」
取り乱していた男はそう前置きをつけてから、やはりひどく怯えた調子で語りだした。

「あの事件の起こったのは今からちょうど十年前の今日のことだ。当時私はまだ小学生だった。・・・まあ、そんなことはどうでもいい。私の家の近所に尾山という家族が住んでいた。彼らはとりわけ変わった家族でもなかったが、私にとても優しくしてくれた。当時はよく遊びに行ったものだ。 ところがあるとき、そこの主人、謙三といったが、ふらっと家を出たきり、そのまま行方がわからなくなってしまった。警察が町中を隈なく捜したが、どこにも彼の姿は見当たらない。ただ、近くの川原に、彼が履いていた靴がきちんと並べて置かれていたそうだ。」
「並べて・・・?」
男はうなずくと、また語りだした。
「そこで、謙三は自殺を図ったのではないか、ということになった。警察は全力で川の中を調査した。その結果、一週間後に川原から大分離れたところで一つの死体が上がったのだ。 しかし、この死体が妙だったんだ」
「妙って、何がだ?」
「死体の胸に、白い羽の矢が深く突き刺さっていて、しかも検死の結果、謙三はこの白羽の矢で亡くなっている。」
「それは妙だな。川で溺れたのではなく、その矢で死んだのか。」
男はゆっくりと頷く。
「ということは他殺の可能性が高いな。」
「うん。警察でもその方向で調査を進めたようだが、結局証拠がつかめず、犯人は分からなかった。なあ雨川、私は今日、その事件のことでこんなにもびくびくしているんだ。」 「梶井、なぜ君はそんなに怯えているのだい。今の話と君の怯えと、一体どんなつながりがあるのだ。」
「それも私には分からないんだ。何かがあったような気がするのだが。それが思い出せないんだ。まあ、子供のころの出来事だから、覚えていなくても無理はないのだが。」
「ふうむ。」
雨川は何となく腑に落ちないところがあるらしく、腕を組んで何かを考え込んでいる。 「君は探偵だろう、雨川君。実はそのことで、ひとつ頼みたいことがあるんだ。」
梶井と呼ばれている男は、背広の内ポケットから白い封筒を取り出し、震える手でそれを雨川探偵の目の前にある机の上においた。
「なんだいこれは?」
「開けてみればわかる。このまえ私の家のポストに入っていたんだ。」
雨川は開ける前に封筒を観察してみた。便箋を入れる白い封筒で、切手のところに消印が押されている。消印を見ると、東京の郵便局から送られてきているようだ。
雨川は封を切って、中の手紙を取り出して読んでみた。

  十年前の事件を忘れるな。白羽の矢は常に血に飢えている。月が満ちる時、惨劇は繰り返されるであろう。

ただそれだけ書かれている。
「月が満ちる時―――つまり満月のときに惨劇が再び繰り返されるということだな」
そう言って壁に掛かっているカレンダーに目をやった。―――あと一週間ほどで満月だ。
「なあ雨川」
梶井はそう言って、 「今もあの家族は同じところに住んでいる。S県N市。ひとつ事件を調査してくれないか。」

プロローグ・完